2005年09月13日

ホームページ考・追記

今回は前回の「ホームページ考」に関して毎日更新で有名なじゅみゅさんが非常に考えさせられる返信をしてくださったので、 それを受けての追記です。
それにしても前回の文章は2回に分けて書いた政で前半と後半の口調が違うんだよな・・・。ミス。

 

じゅみゅさんが述べておられるように、 ホームページ運営の際に必要なのは塀までの距離(コンテンツの充実)と塀の材質 (広く開いたコミュニケーション)を追求する事です。
塀を取っ払う事は際限ないコンテンツの増大と希薄化を生み、そのサイトの特化性を失わせて結果的につまらないサイトへと落ちます。
塀の存在はより内容のあるサイト作りのためには必須のものであるでしょう。

 

では私たちはどうすればいいのか?まず必要なのは前回述べたように他人に読んでもらえる文章を書き続ける事。 テキストサイト界にはロジックパラダイスや侍魂のような超人気サイトがありますが、どこも文章の質が高く、 初めて読んだ人にも十分に面白いものとなっています。
誰が読んでも分かるけど、もう2度と読む気がしないようなつまらない文章を書く事も、 面白いんだけど身内じゃない人にはぜんぜん通用しないような文章を書く事もほんとの良いサイト作りには繋がっていかないでしょう。

常に見えない他者に向かって文章を書いていく。それがインターネットの「一般性」 を十分に活かしつつ、深みのある良いサイト作りに向かっていくキーワードとなるのではないでしょうか。

 

じゅみゅさんが述べておられるので重要だと思われるのが 「コミュニティはコンテンツにくっついてくる」という事です。
僕のサイトはリアル日記とテキストとメイプル関連に分かれています。 つまり理論上は3つのコンテンツに3つのコミュニティがくっついて出来ているのが僕のサイトです。
良くリアル友達に「あのゲームの記事は何なの?」と聞かれます。逆にメイプル関連の記事を求めている人には 「お前の考えとか日常なんか興味ないよ」と思われるでしょう。

しかし、これがどれか一つであったりするのならば、僕のサイトは広がりを失って行く事となるでしょう。
リアル日記に特化するのでもなく、メイプル関連に限定するのでもなく、 両方のコンテンツを含んでいるからこそ僕は他者を意識しながら文章を書けるだろうし、読者を目に浮かべながら日記を書けるのです。 別に他者に同じものを求めはしませんが。

私たちが持つべき意識としては、絶えず現在のコンテンツとコミュニティに満足するのではなく、 その広がりと深みを求め続けていく事でしょう。それがじゅみゅさんの言われた塀までの距離を伸ばし、 塀の隙間を広げ続ける作業なのでしょう。

 

自分の知らない他者に読まれていると言う意識がないと、きっとホームページは目に見える一部の人に向かって書いているだけとなり、 読者もその人たちだけになるでしょう。ならばインターネットでいちいち日記を晒す必要はありません。
インターネットで公開しているというのはどういう事なのか、誰でも読めるというのはどういう事なのか、 それを良く考える事が日記サイト運営者にとって必要な意識なのではないでしょうか。

 

 

追記:Mixiについて

僕の中でMixiとは巨大な村です。その中にいる人はみんな知り合いで、外からは入れないように大きな柵で仕切られている。 もしくは秘密クラブのようなものと例えてもいいかもしれません。
インターネットが誰にでも利用・閲覧できるというユビキタス思想を基にしているのに対し、 Mixiは柵の中に入っている人には自由を与えるけど、 柵の外の人には全く関与させないというきっちりとした枠(それがMixiの売りなのですが)があると思います。

だから自分の書きたいように日記サイトを運営したい、 読む人も別に知り合いだけでいいと思って書いている人はむしろMixiのほうが向いているかもしれません。 Mixiの中は巨大な身内なのでトラブルもなく運営できるでしょう。

僕はより多くの人、よりいろんな人にホームページを見てもらいたいのであえてMixiに手を出す事はないと思います。

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posted by やどかり at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月11日

ホームページ考

前回の「プレ・ホームページ考」でお茶を濁す更新をしたところ、なぜかトラックバックとコメントを頂き、 手抜き更新した方が受けがいいのか??と考えている今日この頃です。

さて、題名のとおり「ホームページ考」です。
僕は大学2年の初めからホームページを始め、今までに2回の移転と10数回のリニューアル、java、css、htmlをいじり倒し、 大体のHPでのテクニックは手を出してきました。その中で様々なホームページを見続け、良いものからどうしようもないものまで見て来ました。
今回はそんな中で考えてきた「こんなホームページはどうなのかね??」という事を提唱してみたいと思います。

キーワードは「ガラス張りのホームページ」 です。

 

「今日は田中君と一緒に3丁目のファミレスに行ってお勧めメニューを食べてきました。 いつもの場所に座るとちょうど佐藤さんが通りかかったので一緒に食べようと誘ってみたのですが、××君と会うのでダメ! と断られてしまいました。
その後家に帰って田中君とゲームをして遊びました。みんなの中で一番田中君がゲームが上手いので僕は全然勝てませんでした。
来週から学校が始まるのでちょっと嫌だけど今日はとても楽しかったです。」

 

こんな日記が書いてあるサイトは僕は面白いと思わない。 なぜかというとこのサイトはでは彼の事を知らない人は何一つこの日記の意味が分からないからだ。 この日記を読んで面白いと思うのは彼の友人だけであろう。
僕にとっては田中君も、3丁目のファミレスも、佐藤さんも、××君も、彼らのしているゲームも何も分からない。 書いている本人にとっては楽しい日常の描写なのかもしれないが、読んでいるこっちにしてみたら意味が理解出来なさ過ぎて、 火星で起こっている地殻変動の記事を読んでいるのと同じである。

インターネットとは実に面白い空間である。何故かというと全く知らない人が自分の書いた文章を読んでくれるからだ。
インターネットが出来るまでの間、赤の他人に日記が読まれるかもと思って書いていたのはおそらく明治以降の政治家のみである。紀貫之も、 江戸時代の商人も、 戦後生まれの自意識過剰な高校生もまさか自分の日記が不特定多数の人に読まれる事がありうるだなんて思っても見なかったに違いない。
しかしインターネットができた事により、ほぼ誰でも手軽に自分の書いた文章を不特定多数の人の目に晒す機会を得る事となった。 今までは出版でもしない限りそのような機会がなかったのに、現在は小学生から年金をもらっている老人まで様々な人が自分の意見・日常・ 作品を発信する事が出来るのである。

私たちは自分の文章をインターネット上に公開する以上、それは原則的に全ての人に閲覧されることとなる。 それを理解しないでホームページを運営していくと上記のような一部の人にしか理解できないサイトとなるだろう。
僕の言いたい「ガラス張りのホームページ」 とはまさにそのようなサイトである。 誰でも閲覧する事が出来るもの(ガラスは透明)であるが、そのサイトの中には入れはしない。サイトの周りには「彼の世界」 というガラスが塀のように張り巡らしてあるからである。そのようなサイトに集まってくるのはあなたの周りにいる人だけであり、 それはあなたの世界を広げるものではないだろう。

 

ホームページを運営する以上気をつけるべき点は2つある。それは自分のサイトは思っている以上に自分の知らない人が閲覧しているのだという事。 あなたとその周りの人にしか理解できない文章を書き連ねるだけではそこにインターネット最大の特徴である 「一般性」はない。

そしてあなたの日常や意見はそれほど面白いものではないという事。 個人そのものに注目されるようなのは芸能人だけだけである。 あなたがつまらない日常を書き連ねるだけならあなたのサイトに集まるのは一部のあなたの知り合いだけになるだろう。

 

あなたのホームページを様々な不特定多数の人に見てもらえる一般性のあるサイトに成長させるか、 一部の知り合いの中でのみコメントを付け合ったり閲覧しあったりする小さな世界のサイトにするかは、あなたの文章力と視点の広さである。

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posted by やどかり at 18:28| Comment(1) | TrackBack(1) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月07日

プレ・ホームページ考

こういう事を書きたいんだ!!という題名だけ書いておきます。こちトラ卒論ちびちびやっとるんじゃ!!

キーワードは「ガラス張りのホームページ」 です。さああなたのホームページはどうかな?

 

じゅみゅさんのブログ記事面白すぎです。 カトキ立ちは絶対に日常用語じゃねえ。

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posted by やどかり at 21:36| Comment(2) | TrackBack(1) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月19日

一つの意見としてA

A「被害者と加害者」

一般に被害者と加害者が同一人物である例は少ない。加害者は被害者に対してその字が表すとおり、害を与える働きをする。 世の中は一人一人が個別の事情において加害者と被害者を演じ分ける事により運営されている。
しかし第二次世界大戦における日本を考えてみる際、 その立場はまさに被害者と加害者を兼ねるものであったのではないだろうか。

第二次世界大戦における日本を叙述する際に使われるタームを分類してみると、それは多くの場合どちらかに属するものである事が分かる。

被害者・・・自衛戦争、欧米の侵略、聖戦、原爆、空襲、特攻、英霊、東京裁判、沖縄、疎開etc・・・
加害者・・・侵略戦争、八紘一宇、虐殺、南京事件、沖縄、死の行進、満州侵略、軍部、朝鮮etc・・・

もちろんこの分類においては、同じ項目に分類されているタームの中でもその影響者・被影響者は異なっている(例えば、「自衛戦争」 というタームでは「欧米→日本」という見方だが、「沖縄」においては「日本軍部→市民」となっている)
この分類分けで示したいのは、ただこれらのタームが使われる文脈ではその主体が被害者的に語られるか、 加害者的に語られるかという事だけである。

ここで一つの問いを出してみたい。

朝鮮で住民の虐殺を行った日本軍兵士が広島で原爆の被害を受けた際、 彼は被害者であろうか、加害者であろうか?

非常に不遜な問いである事は承知している。しかしこのような問いは必ず成立するであろうし、現実に起きたであろう。 彼に対して私たちはどのような判断を下せばよいのであろうか?前半部分を取り彼を責めるか、 後半部分を取り彼を慰めるべきであろうか?

ここで一番してはいけないのが次のような答えである。つまり「戦争が悪いのであって、彼は戦争の被害者である」 という答えだ。
この答えは前回書いた「無責任の構造」そのものである。戦争とは何者か。戦争は戦争の責任を取ってくれるのか?
戦争を犯した罪、その中で行われた罪を見つめる事無しに、戦争というタームにそれらの罪を押し込め、昇華し、 誰も責任を取ることなく被害者然としているのでは私たちはこの先どれだけの年月が経とうとも、この戦争から何一つ学ぶ事は出来ないであろう。

 

その3に続く。

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posted by やどかり at 02:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月16日

一つの意見として

今日は8月15日だった。世界の多くの人々が第二次世界大戦の終結日として記念する日。敗戦国である日本も例外ではない。
テレビはこぞって終戦特集の番組を流し、平和について考える。

僕は専門的に歴史学を学ぶ立場の人間として、キリスト者としてこの問題を多少興味を持って捉えてきた。

僕が考えるキーワードは「無責任の構造」「被害者と加害者」「光は同時に両面に当たらない」「過去と現代の意識の違い」だ。

 

1 「無責任の構造」

戦前の日本の政治体制は天皇が一元的に全ての権威・権限を掌握するというもの専制政治そのものであった。 そして同時に天皇が全ての権威・権限を掌握しているものの、その責任は輔弼と呼ばれる人々がとる事となっていた。 つまり国の決定・命令は全て天皇の名によって公布されるが、 その決定に対して天皇はどのような失敗を犯しても責任を問われる事はないというのが戦前日本の責任論であった。

これにより政府・軍部は絶対権力者である天皇の名を借りる事によっていかなる命令も出すことが出来た。 そして責任者である天皇は輔弼に責任を倒置する事でいかなる責任も問われる事がなくてすんだ。 この構造の破綻が太平洋戦争であるといっても過言ではないだろう。
軍部は戦争を求める国民の声と共に無謀な戦争へと『天皇の名によって』突入していった。 天皇は責任を取らない最高責任者としてそれを承諾していった。そして敗戦と共に国民は『一億総懺悔』を唱え、 天皇の責任をうやむやにし東京裁判を乗り切った。

奇しくも『国体護持』の言葉が示すように、日本国民は最高責任者であるはずの天皇を護る為に一部の軍部指導者を絞首刑にし、 同時に全国民が『一億総懺悔』により輔弼責任が自らにあると主張した。『一億総懺悔』とはまさに『一億総輔弼』である。 そして冷戦体制と直面したGHQの思惑と重なり、天皇は身分を保証され現在に至っている。 現実的な責任をとったのは一部の軍部指導者のみであり、そして彼らも同時に『天皇の名において』 という大義名分の下公務死という扱いを受けている。

ドイツでは全ての責任をナチス=ヒトラーに覆い被せ、ナチスドイツ体制の否定から戦後を始めた。これはこれで問題点を含んでいるが、 責任を明確にした事により「加害者→ナチス=ヒトラー」「被害者→ドイツ国民&ユダヤ人始め多くの人々」という構図を作る事に成功している。
日本は責任の所在をあいまいにしたため、現在に至るまで「加害者≒被害者」のジレンマから脱出できずにいる。 誰が責任をとるべきで誰が取るべきでないのかはっきりしないから、結果としてアジア諸国の批判を受け止めきる事が出来ないのではないか。

問題は天皇に責任があるかどうかではない。責任を誰かが取る構造を作る事をしなかった人々の問題である。 そしてそれを今も続けているであろう私たちの問題である。

 

その2」被害者と加害者」に続く。

 

(追記)「無責任の構造」という言葉自体は丸山真男氏の言葉だそうです(未確認)。 またドイツについてはあくまで枠組み的なものをかなりの誤解を含めつつ叙述しただけなので批判ヨロ。

posted by やどかり at 03:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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