2006年06月17日

言葉

文章を書くというのは難しい。本当に難しい。

なぜならそれはただテクニックがあればいいとかという問題ではないからだ。
どれだけうまい文章を書いても、そこにオリジナルの意見であったり、自分なりの思想であったリがしない限り、その文章はただの誰かの模写でしかない。
誰かの模写でしかない文章は読んでいても面白くないし、何かを啓発されることもない。

しかしオリジナルの意見や、自分なりの思想というものを本当に持つということは非常に難しい。
だから文章を書く、いい文章を書くということは難しいのだ。

 

ではオリジナルの意見を持つためにはどうすればよいのか。

僕がまず主張したいのは「物事をステレオタイプに判断しない」という事である。
それは本当なら当然のことなのだ。しかし特にインターネットのような世界においては、それは時に少数派となる。

例えば誰かが反韓サイトを立ち上げたとする。そこにはひたすら韓国の欠点や悪意ある批評が列挙される。そして多くの賛同や反対の意見が送られる。
また同時に、誰かが親韓サイトを立ち上げたとする。そこでは先ほどのサイトとは逆の見解が載せられ、そして同じように多くの賛同や反対の意見が送られる。

しかしよく考えてみればどちらの意見とも間違っているのだ。
韓国という国が、韓国人が欠点ばかりのはずはないし、同時に長所ばかりのはずもない。
彼らも人間なのだから様々な側面を持つはずなのだ。それが当然のことなのだ。
しかしインターネットではそのような見解よりも、上記のようなある種偏った意見のほうが好まれる。

それはなぜか。目立つからである。
目立つから。より多くの人に影響を与えられるから。より多くの人に見てもらえるから、そのような極端な意見が幅を利かせる。

そしてそのような意見を信じ込んでしまった人が、あたかも偏向グラスで世界を見るように偏った意見を再生産し続ける。
もちろんその文章は背景にオリジナルな思想はないから、つまらない文章となる。

 

僕は右よりの文章が悪いとか、左よりの文章が悪いとか言っているわけではない。
ただ、誰かの意見を借りてきて当然のように展開している文章はつまらないと言っているだけである。

あなたの書いているその文章は、本当に自分の言葉で書かれているだろうか?
ただ誰かの意見を鵜呑みにし、それをあたかも自分の意見のように書いているだけではないのだろうか?

 

僕もそれは日々気をつけながら生きている。自分の意見を持ち続けられるように。誰かの模写をしないように。自分の核をしっかりと見つめて生きられるように。

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2006年04月28日

余りにも

最近、自分は本当にキリスト者なのかと疑う時がある。

教会に通い、祈り、賛美し、神を信じているが、本当に僕はキリスト者なのだろうか?
ただ、僕はキリストを信じているだけであり、キリスト者と言うにはまだ至らないのではないだろうか?

 

僕はキリスト者というには余りにも罪深いし、正しくない。
まだまだ僕はキリスト者と名乗るには自制が足りないのだろう。

パウロが自らを打ち叩いて従わせたように、僕もまた自らを打ち叩いていかなくてはならないだろう。

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2006年03月19日

言葉

言葉で何かを伝えると言うことは非常に難しい。

 

僕の先輩で「思いを形に」と正直よく言うよというようなこっ恥ずかしい台詞を座右の銘にしていた人がいたが(別に仲はいいけど)、 実際に思いを言葉にするということはものすごく難しいことだ。

私たちは言葉では全体の半分も伝えられない。例えば誰かに電話で自分の家への行き方を説明しようとすると、 それがとても難しいことに気づくだろう。
駅を降りて西口に出て、向かいの国道を左に曲がって、商店街を抜けたら十字路を右に・・・なんて説明をしても、 地図を一目見た方がよっぽど伝わる。
事実に即したことですら言葉というのはこんなにも伝えることが出来ないものであるのだから、 人間の感情などに関してはこれはもう何一つ伝えることが出来ないのだ、と考えたほうがいいのかもしれない。

 

思いを言葉で伝えるとき、僕たちは2つの問題に直面する。

まずは微妙な思いを伝えるには言葉は余りにも大雑把過ぎるということ。
「怒っている」や「嬉しい」という言葉は実際に感じている感情のごく一部しか表さない。怒っているにも微妙な色彩の違いがあるし、 嬉しいという一言では説明し難い嬉しさは存在する。

もう一つは、私たち自身が伝えるべき感情を正確に認識していないということ。
私たちが何かを伝えたいと思ったとき、それをどこからどのように表してよいのか困る瞬間がある。 それは言葉というものを十全に使いきれていないということと同時に、表される感情に対しても私たちが理解に至っていないという事があるのだ。

 

思いと言葉はまったく別のものである。

だから私たちは思いを正しく正確に認識して、それを適切な言葉で十全に表すことは出来ない。 その2つは全く違うものであるのだからそれを等価で並べることは出来ないのだ。
「あらゆる翻訳は誤訳である」という警句と同じだ。

 

僕は今までにたくさんの人から誤解されたり、故なく嫌われたり、避けられたり憎まれたりしてきただろう。

そしてそれらに対して人々は、僕がそのような誤解や憎しみに対してあたかも無関心であるかのように思ってきただろう。

でもそれは僕が誰かに理解されなくてもいいやと思っているからではなく、 ただ誰かが誰かを理解することなんて不可能だからだと思っているからに過ぎない。
僕が誰かに誤解されているように、僕も誰かを誤解している。
だから僕に誰かに自分を理解して欲しいなんて求める権利はないのだ。

 

僕はそのような諦観のせいで多くの人々を失ってきたのかもしれない。
僕は現在の自分に至ったことに対して、誰かに対して説明責任を持っていたのかもしれない。

 

僕には誰かに理解してもらう事を求める権利はないけれども、誰かを傷つけたり何かを損なったりするべきではなかったはずだ。
それは明確に僕の責任である。

 

 

でも、もう全ては終わってしまったことなのだろう。

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posted by やどかり at 00:35| Comment(2) | TrackBack(0) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月08日

Released

大事なことは全てボブ・ディランと村上春樹から教わった。

 

僕にとってこの2人はその世間的評価とは関係なく、まぎれもない個人的な歌手であり、作家である。
2人ともその分野では世界を代表するような功績を残し、また今も活動をされている人である。 しかし僕にとって彼らの言葉はまさしく僕自身に語られている言葉として受け取れるのだ。

ボブ・ディランは僕に音楽の素晴らしさと、前を向いて生きることの大事さ、自分の頭で考えることの意義を教えてくれた。
村上春樹は僕に文章の偉大さと、自らの深みに降りることの意味、言葉の持つ力と限界を教えてくれた。

それは決して一般化できず、また他人に伝えることの出来ないものである。
だからこそ彼らは僕にとって個人的な存在なのだ。

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2006年01月01日

ホームページ続考

かつて夏ぐらいに書いた「ホームページ考」 という記事に対して幾人かの方々からレスポンスとして意見をいただいたことがありました。
サイトを続けていくということは実際には結構大変なことでして、 他のサイトさんも色々考えながらやっているんだなぁということをつくづく思わされました。

今回はその続き。続くとは思わなかったけど。
今回の更新はDOGさんとこなめさん斧陽子さんがサイトを閉鎖するということを知って書くことにしました。 面識はありませんがどうも長い間お疲れ様でした。
僕自身は夏前ぐらいからメイプルに飽き、10月にPCぶっ壊れHDD全交換の刑を受けてから完全にやめてしまいましたが、 あのゲームが出来たことは良かったです。

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posted by やどかり at 00:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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