2009年10月10日

読書すること

僕は今までずっと本を読んできた。そしてこれからもそうするだろう。

 

(今回の記事は更新期間を開け過ぎないためのもの。次の更新はBattle for Wesnoth日記の「Wesnothの起源」編です)

 

 

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2009年05月27日

くよくよするなよ

僕は昔から人に「君は他人の目を気にしない人間だよね」と言われてきた。

言った当人からすれば、遠まわしの皮肉かほめ言葉なのかもしれない。
でも果たして僕は本当にそういう人間なんだろうか。

僕は確かに他人の目をあまりに気にしないかもしれない。他人の事を配慮しないかもしれない。
そう考えると僕はいつも申し訳なく思う。今までに僕が傷つけてきた人たちや嫌な思いをさせてきた人たちは、きっと僕が思う以上にたくさんいるだろうからだ。
僕の無神経さや、高慢さや、人間性の欠如のせいで、僕は今までにどれだけの罪を犯してきたのだろうと思う。

そして僕はこれからも同じように周りの人たちに対して傷つけたり、嫌な思いをさせ続けるのだろう。おそらく、きっと。

ある人は言うだろう。人間関係なんてそんなもんだし、お互いにそうやって傷つけたりしながら生きているんだと。
他の人は言うだろう。完全にうまくやれる人間なんていないのだし、失敗してもまたやり直せばいいんだと。

しかし、そう思っていても、自分の中で納得させ、神に既に赦されていると分かっていても、僕の中にある罪悪感はやわらかい楔のように僕の肉に食い込む。
僕はその痛みをいつも感じながら生きている。僕がこの痛みを感じなければ、この痛みには行き場がないからだ。

 

そんな時、僕は決まってこの一節を思い出す。
それは僕にとって、「風の歌を聴け」という小説の一節というよりも、既に個人的な文章だ。

 

そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠りこもうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながらこの文章を書き続けている。

熱いシャワーに何度も入り、一日に二回髭を剃り、古いレコードを何度も何度も聴く。

今、僕の後ろではあの時代遅れなピーター・ポール&マリーが唄っている。

「もう何も考えるな、終わったことじゃないか。」

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2008年02月25日

サイトを長く続けるコツ

一週間に一度しか更新されないサイトです。
しかもsimutransの記事はその中の一部。だって実際に出来てないんですものsimutrans。

 

そんな事を言いながらも、こうやってパソコンで文章を書き続けてきてもう丸5年にはなります。
大学1年の夏にパソコンをはじめて買って、冬にホームページの作り方を覚えて、それからブログに移行したりしながらもなんだかんだずっと文章を続けて書いてきました。
今も最初に買ったのと同じパソコンを使って(大学4年の時に一度ぶっ壊してHDDを全交換した事あり)、激しく流転するネットの中で文章を書いています。

おそらくネットの中には、特にブログというえらく簡単に個人のスペースの持てるツールが出てからは、恐ろしい数の個人サイトが出来ては消え出来ては消えとしてきたのではないでしょうか。
その中で丸5年続いているのは、上位数%のロングサイトではないかと自負しております。

 

それは多分、姿勢の問題です。
サイトを長く続けるためには、定期的に何かを書き続けなくてはなりません。
長く更新できるコンテンツの発見も重要かもしれません。誰かに何かを伝えたいという熱意も重要かもしれません。根気や性格面の素質も必要かもしれません。

でも、丸五年続けてきた経験から言いますと、一番重要なのは「他者に読んでもらう文章を書くという姿勢」です。
誰か不特定多数の人が閲覧するかもしれない。その際に少しでも面白がってもらったり、役に立つなと思ってもらったり、納得したり感動したりしてもらえるような文章を書こう、そう思う姿勢が大事だと思います。

サイトなんか、自分の日常を書いた日記サイトでも構いません。
でもその日記を書く際に、誰か自分のことを知らない人が読んでも読んだだけの価値のある文章を書こうとしているか?その観点が必要ではないのでしょうか。
そしてその観点を持ち続ける限り、サイトを続けるということはそう苦ではありません。

 

特定多数の人ではなく、不特定多数の人が読んで意味のあるサイト。
このサイトが少しでもそういうサイトであればいいなと思い、僕はこうやって更新しています。

まあ、この記事が誰かの役に立つとは思えないんですがね。そういう記事も時には投稿してもいいのだ。

posted by やどかり at 02:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月23日

正義か、平和か

最近ざっと読んだの中で、「正義よりも平和を選ぶほうがよい」とあった。
僕はこういう考え方は好きである。その本の中では大して共感する部分はなかったけど、ここだけは良かった。

 

ドイツがまだ東と西に分かれていたとき、西ドイツの外交官はどうして東ドイツと外交交渉をするのかと問われたときにこう答えたそうだ。
「私たちは東ドイツという国を正しいとは思っていません。しかしそこに実際に東ドイツがある以上、彼らとの間に相互理解を生み出すべく努力することは必要です」

うろ覚えだから細かいところは正しくないと思うけど、大まかな筋はこういうものである。

 

「正義」の名の下に非難や攻撃をするのは実は簡単だ。正義は強いからだ。
しかし正義の名を振りかざさずに、粘り強い忍耐と努力の元に平和を生み出すのは難しい。

「正義」を見つめすぎると、時に現実が見えなくなる。全てが正義とそうでないものに分かれて見えてくる時がある。
しかし、正義でないものにも生活があり、命があるのだ。正義にこだわりすぎると、相手のその大事なものを平気で失わせるような行動に出てしまう。
「平和」を見つめてそれを実現しようと努力するとき、そこには自ずから現実的な視点が備わってくる。相手の生活や命が見えてくる。それも大事にしつつ、いかに平和を実現しようかと努力する。

声高に叫ぶのはいい、しかし現実的に見てそれは可能なのか。それが常にまず問われるべきだ。

正義を見る前に、平和を見たいと思う。
そういうギリギリまで突き詰めた現実的な視線を持つように努力することが、僕たちを想像力の欠如した人間になることから救い出すのではないだろうか。

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2006年09月29日

レイシズム

実を言うとこの年になるまで『レイシズム』という単語を知らなかった。

レイシズムとは人種差別のことである。 wiki

正直僕の中にはほとんど人種差別的な面はないと思う。
それは今までの僕の生活では「人種」というものの違いを経験することがなかったからだ。
だから僕は人種間の違いというものを意識したことがなかったし、それゆえ人種差別ということに対して何らかのイメージを持つこともなかった。
例えるなら僕は火星人を差別しないように、特に白人や黒人を差別することもなかったのだ。

 

現在の日本は相互的に中国・韓国との関係が悪いと思う。
中国・韓国は反日感情をあらわにし、日本はそれに反発する。鶏と卵の関係だ。

それは実際には古代から続く反目であるし、また日中戦争と韓国併合によって生まれた不幸な歴史の産物である。
僕は日本は侵略戦争の犠牲者に対して真摯に対応するべきであったと思うし、あると思っている。

 

しかし、僕は時々感じる。
日本と中国・韓国との反目は本当に60年前の問題を清算するべくして生まれている摩擦なんだろうか?
むしろそれは時に民族差別、いやむしろ人種間には本質的な優越が存在すると主張するレイシズムの悪魔的な面を含んではいないだろうか?

レイシズムでは人種間には本質的な優越が存在すると主張する。黒人は白人に比べて生物学的に『劣った』存在であるというのだ。
そのような考え方は1951年にユネスコによって完全に否定された。
また、キリスト教も神の前での人の平等の考えの元に人種差別を否定する。

 

僕は日の丸を焼き、首相の人形を燃やしている中国や韓国の人たちの映像を見ると、その主張が本当に歴史認識の違いを埋めようとしている活動とは思えない。
また、韓国への侮蔑的な内容が含まれた本がベストセラーになるような日本を見ると、本当にこの国が60年前の犠牲に対しての認識を正しく持っているとも思えない。

問題はその考えや主張がレイシズム的になっていないか、ということなのだ。
歴史認識を問題とするのならばあくまで「その当時」が問題とされるべきである。そうでないのならば謝罪を求めても謝罪しても何の意味もない。
日本人が本質的に残虐で攻撃的であると考えるのならば、一体どこに和解の可能性があるのだろう。

 

全ての個人はあらゆる共同体を超えて「個人的」である。

もしある特定の人々を包括できる共同体としての特徴が存在するのだと主張するのなら、それはレイシズムだ。
全ての個人は個人的なのだ。確かに人種や民族に特有の性質というものはゆるやかにはあるだろう。しかしそれは決して包括的ではない。
僕はあらゆる面で日本人的であり、また日本人的ではないのだ。

神の前に「個人」として立つこと。そして隣人を「個人」として認め、共に「共同体」となること。それがなされる時に私たちは『本質的な』から自由になるのだ。

posted by やどかり at 02:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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