2009年07月17日

我信ず

僕は中学生の頃からキリスト教信者として生きてきて、今ではそれが職業にも繋がっている。

中学時代も高校時代も、周りに何かの宗教を信じている人間なんてほとんどいなかった。
僕がクリスチャンだと知ると大体の人は驚き、定型文のような質問をし(「教会には毎週行くの?」とか「お祈りをするの?」とか)、そしてまるで触れてはいけない事実を知ってしまったかのように話題を変えられた。

しかし、僕はなぜそのような生き方を選択したのか。
外面的に見ればいろいろ理由は見つかるだろう(小さい頃、隣の家にたまたま宣教師が住んでいたとか、行った教会の牧師が魅力的な人物だったとか)。
しかし問題なのは、なぜ僕はそのような生き方を選択し、そして今でもそれを自発的に続けているのか、なのだ。
15年近い年月というのは、それなりに重みを持つもののはずだ。

 

さしあたっては、「なぜ神を信じるのか」という所から始めてみたいと思う。

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posted by やどかり at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月26日

飛躍

私たちにとって大事なことは神が自らを証明して見せることなのかもしれないけれども、神にとって大事なのは私たちが神を信仰することなのだ。
なぜなら証明によって明らかとされた事は、まず信仰ではなく知識を得させる。神は私たちにとって知識の対象ではなく、信仰の対象であることを欲しているのだ。

神が見えないことは神の不在の証明とは言い切れない。それは不在の仮説的理由にはなりうるが、決して証明ではない。
神が見えないのは私たちに信仰を求めておられるからだ。それは出エジプトの時に神自らが顕現されながらも、不信仰に陥ったイスラエルの民の弱さがそうさせたのであるし、「見ずに信じるものは幸いである」とトマスに言われた御言葉の成就である。

 

神がいるから信じるのではない。神がいることは実際には理由にならない。
なぜなら神が存在し、その存在を明らかにしたところで人が神を信じるかはその人次第だからだ。つまり、人は「神がいることは確かに知っている。だけど俺は神を信じない」ということも可能なのだ。
神を信じると言うことは、単に神の存在を信じることではない。自分の人生を神に捧げることである。

もし神が、自らの存在を明らかにし、信仰を人々に強要するようなことが起きたならば(例えば信じないものを滅ぼすなど)、それは果たして神の望む信仰なのだろうか。
神が望んでおられる信仰は、あくまで人間の側の自主的な行いである。そのために神は自らを隠された。

 

「信じる事とは、飛躍である。しかしそれは光への飛躍である」

という意味の格言があるそうだ。
信じることは確かに飛躍である。信じると信じないの間には深い溝がある。それは歩いては渡れないのだ。
論理性やしがらみや疑問などをひとまず置いて、そちらへと飛び移らなくては向こう岸へは渡れない。そこには理由や結論や仮説は存在しない。つまり「信じる」とは地に足をつけて説明できることではない。

そして、その飛んだ先は光の中である。
飛ぶ前には見えなかったり、ぼんやりかもしれない。しかしその先は光の中なのだ。それが救いである。

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2007年07月08日

比較論

僕はまだまだ大して人生を生きてもいないし、そんな大変な目にも遭った事はないけれども、今まで生きてきた中で漠然とした方針と言うか、標語のようなものがある。

それは、「ボンヘッファーよりまし」というものだ。

 

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こっから先はsimutransは出てきません。あしからず。明日書くから。

 

 

 

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2007年04月03日

幸福の追求

私たちは本当に幸福を追求するべきなのだろうか。

 

1、神は私たちを愛していてくださって、私たちに幸せになって欲しいと考えている。
2、そして神は全知全能の方である。
3、ゆえに、私たちは神に求めれば幸せに満ち足りた人生を送ることが出来る。

この三段論法を主張する人たちは、私たちは神に愛されているがゆえに財政面での祝福や健康面での祝福を受けるべきであり、貧乏や病気は悪魔による災いであると主張する。
私たちが真に神に頼って歩んでいるならば、私たちは裕福で健康であり、同性愛やドラックやポルノ、飲酒喫煙などの悪霊の働きから無縁でいることが出来る、そう主張している。

 

でも本当にそうなんだろうか。

僕はこの考えの中の幾つかの点に疑問を持つ。
まずは、「祝福」とは一体何なのであるかという点。

神は私たちを祝福したいと思っていてくださっている。それは間違いない。
じゃあ神のしたい「祝福」とは一体どのようなものであるのだろうか?それは単純に私たちの求めている裕福さや健康と同意義に捉えていいのだろうか?

もちろんそれはそう単純に言い切れる問題じゃない。
貧しいからこそより純粋に神に近づくことが出来る(修道院などはそういう考え方で出来ている)。病んでいるからこそ他者の弱さに近づくことが出来る。
「弱いから強い」と言ったパウロの言葉は、神の祝福は実に弱さの中に、弱さとして現れるのだという事を言っているんじゃないのだろうか。弱いから、私たちは隣人の友となれるのだ。

 

神は私たちよりも大きな存在だ。
私たちは自分のことと、その回りのことしか知らない。でも神は時間軸を超えて、全てを知っている。
はたして私たちが「今」祝福だと思っていることが、本当に祝福なんだろうか。それは私たちの人生全てを通して見た際に本当に祝福だったと言い切れるのだろうか?

「人間万事塞翁が馬」ではないけれど、私たちには今起きていることが、これから起きることがどんな意味を持つのかは分からない。
だから、私たちは全てのことに感謝する必要があるのだ。それは全てが神からの祝福であるのだから。それは悪霊と神との凌ぎ合いの結果、私たちに降ってきた結果ではない。全てが神からのギフトである。
そして、その視線は諦観でもない。私たちが諦めなくてはならないのは、私たちが神の御業を判断しようとする視点である。

 

神の祝福。

それを考えるとき、僕はかつてドイツの神学者であったディードリッヒ・ボンヘッファーを思い出す。

若き天才として当時最高の教授の元で学びながら、学問の世界に閉じこもる事無く同時代人としてナチス・ドイツと関わっていった彼。極めて限定された状況下で、極めて独創的な神学を展開し、そして突然の処刑によってその神学を永遠に未完成のままで終わらせていった。
家族のうち多くがヒトラーによる弾圧を受け、彼自身も結婚生活を引き裂かれ、家族を失い、そして自分の命も捧げた。

 

真に神に頼る人が、裕福で健康で、幸せに満ち足りた人生を送るべきだとするなら、彼は神に頼っていなかったのだろうか。

神は私たちの乳母ではない。手取り足取り全てを助けてくれる訳ではない。神とはそんなに都合のよい存在ではない。

私たちはこの世界の中で、神の前で神無しに歩むことを、神に期待されているのだ。
だから私たちは、全ての出来事を祝福だと感謝しながら、十字架への道を歩むのだ。

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2006年03月24日

聖さ

聖いというのはどういうことだろうか。

 

僕は聖さに関して教派の性格もあるのだがからっきし分からない。しかし聖さとはキリスト者にとっては非常に重要なものの一つであり、 キリスト者をキリスト者たらしめているものの一つである。

僕は聖さには2つのものがあると思っている。
それは霊的な聖さと肉的な聖さである。言い換えるならあの世的な聖さとこの世的な聖さである。

 

(今回は続きを読むに続きがあります)

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posted by やどかり at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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