2006年09月29日

レイシズム

実を言うとこの年になるまで『レイシズム』という単語を知らなかった。

レイシズムとは人種差別のことである。 wiki

正直僕の中にはほとんど人種差別的な面はないと思う。
それは今までの僕の生活では「人種」というものの違いを経験することがなかったからだ。
だから僕は人種間の違いというものを意識したことがなかったし、それゆえ人種差別ということに対して何らかのイメージを持つこともなかった。
例えるなら僕は火星人を差別しないように、特に白人や黒人を差別することもなかったのだ。

 

現在の日本は相互的に中国・韓国との関係が悪いと思う。
中国・韓国は反日感情をあらわにし、日本はそれに反発する。鶏と卵の関係だ。

それは実際には古代から続く反目であるし、また日中戦争と韓国併合によって生まれた不幸な歴史の産物である。
僕は日本は侵略戦争の犠牲者に対して真摯に対応するべきであったと思うし、あると思っている。

 

しかし、僕は時々感じる。
日本と中国・韓国との反目は本当に60年前の問題を清算するべくして生まれている摩擦なんだろうか?
むしろそれは時に民族差別、いやむしろ人種間には本質的な優越が存在すると主張するレイシズムの悪魔的な面を含んではいないだろうか?

レイシズムでは人種間には本質的な優越が存在すると主張する。黒人は白人に比べて生物学的に『劣った』存在であるというのだ。
そのような考え方は1951年にユネスコによって完全に否定された。
また、キリスト教も神の前での人の平等の考えの元に人種差別を否定する。

 

僕は日の丸を焼き、首相の人形を燃やしている中国や韓国の人たちの映像を見ると、その主張が本当に歴史認識の違いを埋めようとしている活動とは思えない。
また、韓国への侮蔑的な内容が含まれた本がベストセラーになるような日本を見ると、本当にこの国が60年前の犠牲に対しての認識を正しく持っているとも思えない。

問題はその考えや主張がレイシズム的になっていないか、ということなのだ。
歴史認識を問題とするのならばあくまで「その当時」が問題とされるべきである。そうでないのならば謝罪を求めても謝罪しても何の意味もない。
日本人が本質的に残虐で攻撃的であると考えるのならば、一体どこに和解の可能性があるのだろう。

 

全ての個人はあらゆる共同体を超えて「個人的」である。

もしある特定の人々を包括できる共同体としての特徴が存在するのだと主張するのなら、それはレイシズムだ。
全ての個人は個人的なのだ。確かに人種や民族に特有の性質というものはゆるやかにはあるだろう。しかしそれは決して包括的ではない。
僕はあらゆる面で日本人的であり、また日本人的ではないのだ。

神の前に「個人」として立つこと。そして隣人を「個人」として認め、共に「共同体」となること。それがなされる時に私たちは『本質的な』から自由になるのだ。

posted by やどかり at 02:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 独呟 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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