2009年06月21日

Tunnel

いつになってもこのトンネルは終わらなかった。

ハンドルを持つ手に思わず力が入った。
僕は時速40キロで延々と緩い右カーブの続くトンネルを運転している。
このトンネルに入ったのが一体いつだったのかは覚えていない。リピートでかけ続けているqueenの曲を口ずさみながら、僕は長野の実家近くのスキー場に向かって車を走らせていただけだった。
何度も通った高速道路。いちいちトンネルとかパーキングの事まで考えながらは運転していない。

トンネルに入ってから、やけに長いなと思ってダッシュボードの時計を見たのが11時25分。今は11時40分だ。
僕の知っている限り長野の実家までの高速道路上に、出るのに最低15分もかかるトンネルはない。
僕は一体どこを走っているのだろうか。新しく工事中のトンネルに間違って入ってしまったんだろうか。そしてこのトンネルはどうしてこうも同じアールを描いて延々と右にカーブしているのか。

幾ら考えても分からなかった。
時計のデジタル表示が11時41分に変わった。

 

 

 

「ねえ、ちょっと起きて」
僕は隣でぐっすりと寝ていた彼女に声をかけた。

「ねえ、起きてよ」

「・・・っ  着いた?」
彼女は足を突っ張らせて体を伸ばしながら僕に問いかけてくる。

「いや、まだ着いてない。今トンネルの中」

「何?じゃあ起こさないでよ。何でトンネルの中なんかで起こしてくる訳?」
彼女は機嫌が悪かった。そりゃ次のサービスエリアまで起こすなって言っておいたのに、途中で起こされたんだから仕方ない。

「いやね、このトンネルちょっと長いんだよ」

「知らないよ。勝手に長さに感動しないでよ」

「感動して起こしたんじゃなくて、なんて言うか、長すぎるんだよこのトンネル」

「知らないよ。頑張って掘ったからじゃない?あんたトンネルの長さにケチつけるの?」

ダメだ。全然理解されてない。

僕は車を路肩に寄せて停めた。トンネルの中で停車するのは本当はやっちゃいけないんだけど仕方ない。
運転しながらじゃ僕もうまく説明できる自信がなかったからだ。

「僕たちがこのトンネルに入ってから、最低20分は経ってる」
僕はそう切り出した。

「僕の知ってる限りでこの高速上に、こんなに長いトンネルは存在しないんだ。
僕たちは一体どこを走っているんだろう?」

「あんたが運転しているのに私に聞かないでよ」
彼女は不機嫌そうに答えた。

「どっかで違う道に入っちゃったんじゃない?これでどんどんスキー場に着くのが遅れちゃう。
あんたサトシに文句言われるよ」

サトシは僕の友達で、彼女の恋人だ。
僕たちは3人でスキーに行く予定だったのだが、彼女の都合でスケジュールが崩れ、サトシだけ先にスキー場に行き僕たちは次の日に向かうことになったのだ。
ゲレンデの状態は「ふわふわのパウダー」と昨日メールが来た。
3人とも特にスキーが上手い訳じゃないんだけど、この旅行をそれなりに楽しみにしてきた。

「で、」と彼女は続けた。

「どうするの?戻るの進むの?」

僕はまとまらない頭で答えた。
「多分、工事中の新しいトンネルか何かに迷い込んじゃったんだと思う。だから進んでもどこかに出られるとは限らないし、そうするとやっぱり戻ったほうがいいのかな」

「そうね。とりあえず戻れば正しい道が分かるしね」

「それにしても」
彼女はそう言って辺りを見回した。

「さっきから一台も車来ないね。工事中だからかな。でも壁なんかは古そうだし、電気も暗いね。手抜き工事なんじゃない?!」

彼女の言葉を聞いて、僕はヘッドレストに頭を預けた。

僕の感じていた違和感はこれだったんだ。このトンネルはただ長すぎるだけじゃない。
僕はトンネルに入ってから、一台も車を見かけていない。対向車線にも自分の車線にもただの一台も車はなかったし、誰もいなかった。工事をしている建設車輌も、同じように迷い込んだ一般車輌も、何もなかった。
トンネルの中に工事を示す標識や重機、作業員も全くいなかったし、工事をしている気配なんて何も感じなかった。止まって見るとよく分かるけど、壁だって工事中の新しいトンネルとはとても思えないような古めかしさだ。

工事中のトンネルなら入り口に表示があるだろうし、第一入れないように柵なりがしてあるはずだ。
あるいは工事の途中で中止になったトンネルかもしれない?それこそ入り口は封鎖されているはずじゃないだろうか。
今までこの高速を走っていて、ぼんやり運転していたら閉鎖されたトンネルに迷い込んだなんて事は一度もない。

僕が運転を間違えたんじゃない。

このトンネルがおかしいんだ。

 

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「遅くなるから~早く車出してよ~」

全く、こいつは何でこんなところでぐったりしているんだろう。
私は無性に腹が立った。道を間違えて変なトンネルに入っちゃって、トンネルが長すぎるとか訳分からないことを言っている。本当なら1時過ぎにはスキー場についているはずなのに。

「とにかく戻ろうよ。多少遅くなってもいいからさ。ここでこうしてても仕方ないんだし」

彼は私の言葉がようやく耳に届いたのか、のろのろとUターンを始めた。

「おかしいんだよ。このトンネル」
彼はそう呟いた。

「このトンネルどうして誰もいないんだろう。閉鎖中のトンネルならどうして入り口に柵とか何もなかったんだろう。
僕たちだけが迷ってるなんてありえないよ」

「まあ、そうかもしれないけど。とにかく戻ろう。話はそれから」

彼は黙ったまま、元来た道に車を走らせ始めた。 

彼が急ブレーキを踏んだのはそれからすぐの事だった。
車のフロントがいきなり沈み込み、タイヤがけたたましい軋んだ音を立てた。私は座席ごとフロントガラスに突っ込みそうになり、とっさにダッシュボードに手を突き出した。

「ちょっと危ない!」

シートベルトをしてなかったら車外に放り出されたんじゃないかと思うほどの衝撃だった。

「何考えてるのよ!危ないって!」

私は彼に向かってそう叫んだが、その瞬間、彼が目を見開いて地面を見つめているのに気づいた。
彼は何か信じられないことが起こったと言わんばかりに前方を見つめ、ハンドルを手が白くなるまで強く握り締めていた。
何か良くないことがあったんだ。私は直感的にそう思った。何か致命的な事が。

「おかしい」
彼はそれだけを呟いた。

「おかしい」

「ねえ、何がおかしいの?どうしたの?」

「おかしいよ。このトンネルおかしいんだよ。」
彼は唾を飲み、一息に言った。

「さっき俺たちUターンしたよね。だったら俺はどうして今右曲がりのカーブに沿って運転してるの?さっきまでずっと右曲がりに運転してたんだから、Uターンしたら今度は道は左曲がりにカーブしてなきゃいけないんだよ!」

私は彼の言葉を聞くとすぐに前方の道に目をやった。
道は緩やかに右にカーブしていた。

私たちが口を開いたのは、それから数分してからの事だった。

「さっきはごめん」
私は彼にそう呟いた。

「起こしてうるさいとか、トンネルなんかどうでもいいとか言ってごめん」

「いいよ。気にしないでよ」
彼はようやく落ち着いたのか、さっきまでずっと握り締めていたハンドルから手をようやく離した。

「考えよう。とにかく、このトンネルはおかしい。そして僕たちはUターンしたけど、元の道に戻っている訳じゃない」

「うん、そうだと思う」

「そうしたら俺たちは、一体どうやったらここから出られるんだろう?」

私は必死に考えてから言った。
「Uターンする時に間違えたとかはないの?Uターンのつもりで1回転しちゃったとか、途中の横道にそれたとか?」

「君はさっきそう見えた?」
彼は心外だと言う感じに答えた。

「そんな事は・・・ないよね。ごめん」

「いいよ。こっちこそごめん」

「とにかく、どうするか考えよう。こんなトンネルにいるのは御免だ」

 

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こんな所にいるのは御免だ。
僕は心の中でその事だけを何度も何度も繰り返した。そうする事で自分の中の決意を決して揺るがないよう固めていくかのように。

しかし、行動はそれに伴わなかった。
ハンドルから離した手は力を失い、もう一度運転しようと思っているのにも拘らず、肘から先が全く動かなくなっていた。
心臓は早鐘のように拍動し、筋肉は強張り、震えていた。頭はこの状況を打開しろと何度も叫んでいるのに、体は恐怖のためにその命令を無視しているかのようだった。
ただ、ドライバーの常からか、ブレーキだけはこれ以上ないほどに強く踏みつけていた。

「・・・行こう」
と彼女がつぶやいた。

「行こう。ここにいてもどうにもならない。どうせなら進んでみよう」

彼女はそう言うと、僕の太ももに手を載せた。
その行動で、僕の体にかけられた魔法が解けたかのように、僕は体の力が抜け、新しい活力が入っていくのを感じた。
そろそろと手を上に上げ、ハンドルを握った。 

「行くって、どっちに行くの?」

「・・・わかんない。とにかくここにいてもどうにもならないから」

「そりゃ、確かにそうなんだけどさ」
彼女も不安なのだ、怖いのだ。僕は当然の事実に今頃気づいた。

「とりあえず、このまま進んでみよう」
僕はそう言った。彼女もうなずいた。

僕は痛いぐらいに踏みつけていたブレーキから足を離すと、慎重にさっきと同じように車を走らせていった。
どこに進んでいるのか、その先に出口があるのかも分からずに。

10分ぐらい走った時だった。

道はずっと同じ右曲がり。曲がり加減も一緒だ。等間隔で並ぶ壁のオレンジ色の灯りとあいまって、まるで延々と同じテープを再生しているかのような単調さだった。
最初のうちは何一つ見逃すまいと目を凝らしていた運転の緊張も、体の強張りが次第に解けるのと同時に散漫になっていた。

車のスピードがスルスルっと落ちた。
僕はとっさにアクセルを踏み込んだ。しかしスピードは相変わらず落ちていく。
ギアをドライブから入れ替えてもダメだ。
そして車は止まった。実にあっさりと。

「・・・ちょっと、どうしたの?」
彼女は信じられないと言うように僕を見ながらそう言った。

「えっと・・・わからない」
僕は上の空で返事をしながら、何故突然車が止まったのか必死に考えた。
エンジン系統の故障か、ブレーキがいかれたのか、とにかく何か理由があるんだ。それをどうにかしないと・・・。
そう考えながら僕は運転席のメーターを眺めた。
見た途端、理由はすぐに分かった。燃料計がEnptyを示していたのだ。

「ガス欠だ・・・」

「ちょっと・・・。信じられない・・・」
彼女はそう言うとヘットレストに頭を預けた。

「どうしてこんな時にガス欠なんかになるのよ。ほんと信じられない」

「うん・・・。でも・・・」

「確かガソリンは東京出るときに満タンにしたはずだよ。こんなに早く無くなるなんて信じられない」

僕がそう言うと、彼女はぶるっと震えた。 

 

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私はこのトンネルを知っている。

正確に言うと、私はこのトンネルを知っていた事を知っている。私は昔、まだ記憶も確かでないほどの幼い頃にこのトンネルに入り、出たことがある。
その時の事は今ではすっかり忘れていて、詳細なんて何一つ覚えていないけれども、ふと急にその事をさっき思い出した。
そう、私はこのトンネルを通り抜けたことがあるのだ。遠い昔に、母と一緒に。 

「・・・知っているってどういう意味?」
彼が尋ねてきた。

「私、このトンネルに入ったことがある。小さい頃に」

「という事は、このトンネルが一体何なのか知っているって事?」

「そうじゃない」
私は首を振った。

「私は小さい頃に、母と一緒にこのトンネルに入って、出てきた事がある。私が覚えているのはそれだけ。このトンネルが何なのか、どうすれば出られるのかは全然覚えていない。」

彼はそれを聞くとため息をついた。

「そうか、覚えてないんだ。子供のときの話?」

「そう、物心つく前ぐらい。別に事態は進展した訳じゃないのよ」

「そうみたいだね」

私たちは動きを止めた車の中でじっとしていた。
というよりも、出来ることがなかった。
なんて簡単なんだろう、と私は思った。車が止まってしまうだけで、ガソリンが無くなってしまうだけで私たちに出来る事は何一つなくなってしまう。
トンネルは私たちを捕まえるために、ただガソリンを無くしてしまえば良かっただけなのだ。
それだけで私たちはライオンの前の傷ついたシマウマのように、ただ諦めのまなざしを向けながらじっとしているしかなくなる。

「とりあえず、外に出ようか」
彼が言った。

「車はもうガソリンが無いんだから走らない。このまま座っていても助けが来るとは思えない。ならいっそ外に出て、このトンネルは何なのか見てみてもいいと思う」

「確かにそうね」

「それに、さっきの話だけど、君は昔このトンネルに入って、出たことがある。だからこのトンネルが何なのかを思い出したらきっと出る方法も思い出すんじゃないかな?
今はそれを期待するしかないんだし、とにかくこのトンネルが何なのかを見てみよう」

 私たちは車を降りた。

車を降りると外はじめっとした湿気に包まれた空間だった。
空気はかび臭く、なんともいえない臭いに包まれていた。時間がかもし出す臭いだ。
壁はありえないことにレンガ積みだった。いまどきレンガ積みのトンネルなんて聞いた事も無い。
彼は車に積んであった懐中電灯で壁を照らしながら呟いた。

「なんかまるでタイムスリップしたみたいだな。明治時代のトンネルに見える」

「明治時代にもトンネルはあったの?」

「そりゃあったさ。ただ今のように交通が発達している訳じゃないし、トンネル工事の技術もないから大したトンネルは作れなかったと思うけどね。
確か琵琶湖疎水のトンネルもこういう感じなんじゃないのかな?京都と琵琶湖を結んでいる水運なんだけど」

「という事は、私たちの今いるトンネルは明治時代に作られたのかな?」

「そりゃないだろう」
彼は首を振った。

「明治時代にこんな長いトンネルは作れなかったと思う。というか、今の時代だってこんな奇妙なトンネルは作らない。延々とカーブしているトンネルなんて」

「つまり、このトンネルは何なの?」

「分からないよ。ただ、このトンネルは実在するけど誰にも知られていない。どこかにたどり着くようでどこにもたどり着かない。それだけ」

「そうか、分かった」

私たちが歩き始めてしばらくたった時だった。彼はそう言った。

「どうしてこのトンネルがカーブしているのかが分かった気がする。」

「・・・それってどうしてなの?」
と私は尋ねた。

「このトンネルはずっと右曲がりにカーブしていた。今もカーブしている。そして、不思議な事にUターンしても相変わらず右にカーブしている。
こんなにカーブしているなんて事はありえない。だってずっとカーブしているんだったらいつかは一周してしてしまうはずだからね。」

「八甲田山みたいに?」

「・・・まあ、ろくな例えじゃないけど、そうだよね。ずっと同じ向きにカーブしていれば、いつかは一周する」

「じゃあ私たちも同じところをぐるぐる回っているだけなのかな?」

「それは分からない。目印とかつけているわけじゃないし、もしそうなんだったら今度は僕たちの前に乗り捨てた車が出てくるはずだ。
それがまだ出てこないって事はなんとも言えないって事。」

「そうじゃなくって」
彼が話を継いだ。

「こんなにカーブしているっていうのは、僕にはこう思えるんだ」

「カーブしている以上、前も後ろもある程度の距離までしか見えない。それ以上はカーブの向こう側になるから。
このトンネルがずっと同じようにカーブしている以上、僕たちはずっとカーブの向こう側に何があるのか分からないままなんだ。
このカーブは尋常じゃない。Uターンしても何も変わらないカーブなんておかしすぎる。」

「つまり」
と私は言った。

「このトンネルがカーブしているのは、僕たちを逃がさないためにあるとしか思えない。カーブの向こう側の何かが、僕たちが出れないようにずっとトンネルをカーブさせているんだ」

「そこにあるのは、悪意」

私たちは同じ単語を口にした。
このトンネルが私たちに向けている感情そのものを。

 

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悪意。

あまり日頃使わない言葉だ。特に僕みたいに毎日を草食動物のようにおとなしく過ごしているだけの大学生にとっては。
しかし今は違う。僕は今悪意をひしひしと感じる。それはまるで空気の中にひっそりと紛れ込んだ毒ガスのように、僕たちの周りに忍び寄り、呼吸にまぎれて体内に侵入し、肺を満たす。
強烈な息苦しさを感じる。強い圧迫感。
まるでトンネルそのものに押しつぶされそうな感じだ。じわじわと周りから締め付けられるような。

「・・・歩こう」

僕はようやくそう言った。そう言わなければ足を踏み出すことが出来なかった。
そう、僕たちはいつの間にか止まっていたのだ。本当に自分たちでも気づかないうちに、足が止まっていたのだ。

僕たちはのろのろと、しかし止まってはいけないとの切実な意思を持って歩き始めた。
トンネルはずっと同じように続いている。同じ曲がり具合のカーブ、同じ高さの天井、相変わらずのかび臭い空気。
全てが同じだ。それはまるでトレーニング・ジムのランニング・マシーンの上を延々と歩いているだけのような無意味さを感じさせた。もくもくと、自らの体を鍛えるためだけに作られた空間。鏡に向かいながら移動することも無い運動を続けている空しさ。
僕たちはこのままどれだけ歩けばここから抜けられるのだろうか。そもそもこの先に本当に出口があるのだろうか。

そもそも、僕たちは進んでいるのだろうか。

懐中電灯が切れた。
歩くのがあまりにも惰性になりすぎて、僕は最初の数歩は懐中電灯が切れたのにも気づかなかった。
突然後ろから彼女に肘を掴まれて、それではっと辺りが暗闇になったことに気づいたのだ。

「ちょっと!大丈夫?!」

「ごめん、ぼんやりしてた」

「しっかりしてよ!前歩いているんだから!」

僕はまたごめんと謝り、彼女の方を向いた。

いまやトンネルは真っ暗になっていた。彼女が白いコートを着ているからようやくその上半身が判別できるぐらいで、後は暗闇の中に融けてしまって何も見ることが出来なかった。

「・・・電池切れ?」
と彼女は聞いた。

「うん、多分。ずっと車に入れっぱなしだったから」

「ただの電池切れなら良いんだけどね」

確かに。と僕は言葉を継いだ。
単なる電池切れなのか、もしくはガソリンみたいにトンネルの仕業なのか。
僕たちにはもうそれを判別することも出来ない。全ては僕たちの手から離れてしまっているのだ。
決定権は僕たちで無く、既に他に移っていた。それが僕たちを捉え、車から降ろし、そしてこの場所で灯りを奪った。僕たちはいまやただ黙ってそれを受け入れるしかすべは無かった。

僕は座り込んだ。

地面は土で、ひんやりとして気持ちよかった。
周りが見えないからもう歩くことも出来ない。どっちに進めばいいのかもわからない。僕たちに出来ることは、ただ黙ってじっとここに座っていることだった。
彼女は座り込んだ僕の気配に気づいたようで、こちらの方に近寄ってきた。
白いコートがわずかに僕の視界に写った。

「っ!痛いって」

「ごめんごめん」
と彼女は謝った。

彼女は僕の姿を探すために手を振り回していたようだった。その手が思いっきり僕の頬に当ったのだからたまらない。
僕のかけている眼鏡はズレ、場違いなぐらいに乾いた音が辺りに響いた。

「クリーンヒットした?」

「音で分かるでしょ。痛い」

「そんなところにいるからだって」

彼女はそう言いながら僕の位置を手探りで確認し、となりに座った。
彼女はべったりと僕の半身に身を付け、僕の腕を取った。
今までに彼女からそんな行動をされた事はなかった。普段なら気が動転してしまったことだろう。しかし今は暗闇ということもあり、自然なぐらい彼女の行動を受け入れていた。

「暗いね」
と彼女は言った。

「真っ暗闇だ」

「これからどうすればいいのかな」

「もうどうしようもないよ」
と僕は言った。

「こんなに暗くちゃ動けない。ここにいるしかない」

「あー、スキー行きたかったなー」
彼女は場違いなぐらい大きな声でそう言った。

「そうだよ。サトシは何でこういうときに助けに来てくれないの?せっかく付き合ってるってのに!」
彼女はそう言いながら腕を振り回した。

「どうせあいつは今頃一人で滑ってるんだよ。俺たちがこんなトンネルにいることも知らずに」

「あー、絶対別れてやる。あんな人でなしとは!」

僕は思わず苦笑した。
ここはおかしなトンネルの中で、僕たちは車も灯りも失ってへたり込んでいる。
だけど彼女はスキーの事を考え、彼氏の事を考え、これからのことを(怒りと共に)考えている。
もちろんそれは強がりだし、本心では彼女も震えるぐらい怖がっているんだろう。でもそれを口に出さない。

だから僕も口に出さない。
僕も怖い。多分僕たちは何か恐ろしいものに捕らわれているんだろう。生きて帰るなんて出来ないかもしれない。
でも僕はそれを口に出さないことに決めたのだ。彼女のためにも。
そう決めると気持ちが楽になった。
空気も心なしか、そのかび臭さを減じて爽やかになったようだった。

 そして僕は、突然彼女に抱きしめられた。

 

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彼は一瞬、自分の身に何が起きたのか分からなかったようだった。
数秒後、ようやく事態に気づき慌てふためいている彼を尻目に、彼女はますます彼の背中に回した腕に力を入れた。

「ち、ちょっとどうしたの?いきなり何?」

「いいから黙って」と彼女の冷静な声が響いた。

「わ、わかったから。とりあえず肩が痛い、なんか硬いものが当ってるって!」

そう聞くと彼女はわずかに腕に込めた力を抜き、彼の肩に食い込んでいたショルダーバックのベルトのバックルの位置をずらした。
しかし彼女は相変わらず、彼を抱きしめたままだった。

「私がこのトンネルに入った事があるって、さっき言ったよね」と彼女は切り出した。

「うん、小さいときに来たんだよねここに」

「そう、こんな事になるまで今まですっかり忘れてたけど、私はここに来たことがある。
そして、私は今みたいにお母さんに抱きしめられてた」

顔を彼の頬に寄せ、彼女は続ける。

「お母さんは私のことを抱きしめて、怖くないよって何度も言っていた。ユキちゃん怖くないからね、怖いことは何もないからねって繰り返してた。
私は泣いていたけど、その言葉を聞いて、お母さんに抱きしめられて安心した。お母さんと一緒なら、この暗いトンネルも大丈夫だって思った」

「つまり、」彼は今やぴったりくっついている彼女に言った。

「俺のことを元気付けようとしてくれているの?」

「いいから黙って」と彼女は言った。

「お母さんは私を抱きしめて、怖くないって言った。大丈夫だって言った。そして、私たちはトンネルから出てきた」

「あんたはとにかく黙って。動かないで。私がいるから。私がトンネルからあんたを出してあげるから」

彼女はそう言うと、彼の頭を抱き指を髪に絡ませながら大丈夫大丈夫とつぶやき始めた。
振り払う訳にもいかないし、かと言って抱き返す訳にもいかない。突然起こったこの事態に、彼はどうする事も出来ないまま、ただ彼女のなすがままに任せていた。
そのようにして彼にとっては永遠とも思えるような時間、実際には数分間が過ぎた時、今まで独り言のように呟き続けていた彼女の声が変わった。
それは聞き慣れていた彼女の声ではなく、もっと大人の女性の声だった。

「ユキちゃん、大丈夫だから。大丈夫なのよ」

彼は声を出さずにじっとしていた。
今自分を抱きかかえているのはさっきまでの彼女ではない。どこかですり替わった訳でも変身した訳でもないが、とにかく別人だ。
大丈夫と言い続ける彼女に身を委ねながら、彼はこれから起こることを待った。
とにかく今は彼女を信頼するしかない。彼女は以前このトンネルを抜け出したことがあるのだから。

 つと、彼女は彼から手を離した。そして立ち上がると、彼の手を取った。

「ユキちゃん、行きましょう」

彼は言われるがままに立ち上がり、手を取る彼女の後を歩き始めた。
彼女は真っ暗闇のトンネルの中だったが、力強く前に向かって歩き出した。
手を引かれる彼もその勢いにつられて大股で歩を進める。

「ユキちゃん、大丈夫よ。ここは怖いところではないの。お母さんと一緒なら大丈夫なのよ
ここは真っ暗ね。でも大丈夫よ。ユキちゃん暗い所は駄目なのに、今日は泣かなくてえらいね。
もうすぐ出られるからね。ちょっと寒いけど我慢しようね」

彼女はそう言って彼の手を引き、歩き続けた。
彼女は彼女でなく、彼は彼ではなくユキちゃんだった。彼はその事態を全く理解できていなかったけれども、とにかく黙って彼女の後をついて歩いていた。

 彼は手を引かれて歩いているうちに、こんなに力強く歩いて大丈夫なのかとふと不安に思った。
なにせ周りは真っ暗で、トンネルは緩やかにカーブしている。あんまり大股で盲滅法に歩いていたら壁に激突したりして危なくないんじゃないだろうか?
真っ暗闇といっても、もう彼の目もその暗さに慣れてきていた。最初の頃の自分の手も見えないような状態からは大分改善されて、ある程度なら彼女の姿も判別できるし、トンネルの中の様子もわかるようになっていた。それでもこのスピードで歩くのには怖さを感じる。もう少し速度を落として慎重に歩いたほうがいいんじゃないだろうか?

そんな彼の不安を感じたのか、彼女はさっきまでとにかく力強く歩いていたのに、トンネルの壁の近くまで来ると足を止めた。

「ユキちゃん」
と彼女は声をかけた。

「今からは絶対に手を離しちゃ駄目だからね。手を離したらお母さんと一緒に外に出られなくなっちゃうから。だからしっかり手を繋いでてね。」

そう言うと彼女は彼の手を強く握ったまま、壁に向かって歩き出した。

彼が声をかける間もなく、彼女は壁に溶け込むように入った。まるで壁が液体で出来ているかのように、彼女は壁に入り、そして中に消えた。
ただ彼と繋いでいる手だけが、壁の中から出てきていた。

目の前で起こっているこの異常な事態に、彼は何も言えず、いや声を上げることも出来なかった。
一体これは何なのだろう。彼女は壁の中に消えた。手だけが今も僕と繋がっている。僕も壁の中に入るのか?どうやって?
呆然としている彼を促すように、壁から出ている手が彼を引っ張った。
意外なほど力強く、ぐいっと彼を引っ張る手により、彼は壁の方向へと歩き出した。もう理解が出来ない。とにかく手を離してはいけない。手を離したらどうしようもなくなってしまうという思いだけが彼の足を動かしていた。彼は目をつぶり手の引っ張る方向へと歩いた。

壁にぶつかる直前、彼女の声が聞こえた。

「目をつぶらないで。目をつぶったら何も見えなくなるから」

目をつぶらなくたってどうせ真っ暗なんだから何も見えないだろ!と声を上げようとする彼に、彼女は続けた。

「目を開けて。たとえ真っ暗で何も見えなくても目を開けてさえいれば、いつかは見えるから」

その声が聞こえると同時に、彼は壁の中に入った。目を見開いたままで。

 

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「・・・今何時?」

「2時過ぎ」

「とっくに到着してなきゃいけない時間ね」

「あいつには連絡入れているから大丈夫でしょ。もうじきJAFも来るよ」

「一日損したわ。全く」

 路肩に止まった車の中で、僕たちはJAFを待ちながら無駄話をしていた。
周りは山林で人の気配もない。15分に1台ぐらい、地元の人の車が通り過ぎるだけだ。カーナビで現在位置が分かったからJAFを呼べたようなものの、もし無かったらお手上げだったに違いない。
気がついた時、僕たちは車の中にいた。

気がついたのはほぼ同時だった、と思う。

ゆっくりと舞台の幕が上がるように意識がはっきりしてきて、僕は自分の車の中にいることに気がついた。
シートベルトも締めている。頭はまだぼんやりするけど、怪我をしているとか痛みがあるなどの体の変化は無いようだった。
そして隣を見ると、今しがた目覚めたばかりの顔をしている彼女が、僕と同じようにぼんやりした目でこちらを見ていた。
彼女にも何の変化もなさそうだった。別に着衣が乱れているとかも無い。
言うなれば二人して昼寝をしていた。そんな感じだ。

僕は無意識のままにダッシュボードの上の烏龍茶を手に取り、一口飲んでまた戻した。
そしてシートベルトをはずし、背伸びをした。体はずっと不自然な体勢をとっていたことに抗議の声を上げるようにみしみしと音を立て、僕は声にならないうめきを上げた。
背伸びをしてみるとようやく僕の体が僕に戻ってきたかのような気がしてきた。

「・・・ここどこ?」と彼女が聞いてきた。

「ん、分からない」

「つーか、どうしてこんなところにいるの?スキーに行くんじゃなかったの?」

「・・・ねぇ。そうだねぇ」

僕の心無い返事に彼女は怒りを覚えたようだった。そりゃそうだ。
スキーに行くはずだったのに、どこかも分からない林道で二人して昼寝をしていたら誰だって怒る。
彼女が僕に怒りをぶつけるのは当然なのだが、だからといってその怒りに対して僕が正当な理由を伝えることは出来ない。
なぜなら、僕もどうしてこんな事になっているのか全然分からないからだ。

腕時計を見る。時刻は2時前だ。
最後に時計を見たのは12時前だったと思うから、あれから2時間近くの時間が経っていることになる。
僕たちはその2時間の間何をしていたのだろう。どうして高速道路でドライブをしていた僕たちが、こんな人っ子一人いない林道で昼寝をしているんだろう。
全然分からない。とにかく僕に分かるのは、どうやらあれはワイルドな白昼夢とかではなくて、何かしらの形でのリアルな事実だったということだけだ。
そうじゃなきゃこんな事にはならない。

「ねえ、トンネルの中のこと覚えてる?」

僕の問いかけに、彼女はびくっと反応した。

「・・・覚えてるわよ。というか、トンネルの中で気が遠くなって、気づいたらここにいたんだから」

やっぱりトンネルの中の出来事は僕の妄想なんかじゃなかったようだ。
安心すると同時に、一体あれは何だったのかとの恐怖が襲ってくる。僕たちは一体何の中を通り抜けてきたんだろう。
そこには僕たちの常識が通用しない事象があった。僕たちは無力な子羊のように、突き飛ばされ転がされ、屠られるのを待っていたんじゃないだろうか。

「とにかく」と僕は呟いた。

「とにかく、ここにいても仕方ないから、車動かすよ」

そして僕はもう一度シートベルトを締め、キーを回した。

 ・・・JAFを呼んだのはそれからすぐの事だ。

ガソリンが無けりゃ車は走らない。僕の車は出発時に満タンにしてきたにもかかわらず、きれいさっぱりガソリンが無くなっていた。
何とかギリギリカーナビを使って現在地確認は出来たのだが、それ以上は無理だったので僕たちは蒸し暑い車内を出て、外でJAFを待つ事にした。

「ガソリン、飲まれちゃったのかな」

彼女が車に寄りかかりながら話しかける。

「多分そうなんだろうね。きっと給油口からごくごく化け物に飲まれちゃったんだよ」

「ガソリンっておいしいのかな」

「さあ。とにかくガソリンだけで済んでラッキーだったとしとこう」

彼女は待ちくたびれたという感じにぶらぶらと歩いている。まだJAFを呼んでから10分も経っていないんだけど。
実際には今回の出来事に対して、自分なりに考えを巡らしているのかも知れない。

僕はそんな彼女を見ながら、どうやってトンネルを抜けられたかは黙っていようと思った。
彼女に対して確認はしていないが、何となく彼女はどうやってトンネルを抜けたのか覚えていない気がしたからだ。
あそこで僕を抱きしめ、手を取って、壁を抜けさせてくれたのは彼女ではない。それは確かだった。そうである以上、彼女に対していちいち事実確認をとるのは気が引ける。

何より、あの出来事を思い出すのが恥ずかしいだけっていうこともあるんだが。
JAFが来たのはそれからかなりの時間が経過しての事だった。

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JAFの人に給油してもらって車を動かして、スキー場へのルートに戻るには結構時間がかかった。

私たちはすごい山奥の林道にいたみたいで、JAFの人たちもなんでこんなところで旅行客がガス欠を起こしているのかと、呆れ顔だった。
とにかくJAFの人たちに助けてもらい、予定より大幅に遅れて私たちはスキー場へと向かった。きっとスキー場につくのは夕方だろう。そうするとスキーは明日の朝からになる。本当は今日の昼から滑りたかったんだけど仕方ない。

スキー場へと向かう車の中では聞いた事の無い音楽が流れていた。きっとまた古い歌手の曲だ。
彼は自分が生まれる前の頃の曲を好んで聴く。別にクラシック・マニアとかではないし、今時の歌手についてもそれなりに知識はあるんだけど、ビートルズとかローリング・ストーンズのような古臭いロック、時にはそれよりも古い雑音交じりのブルースなんかを聴いている。
かっこいいと思ってやっているのかと一度聞いてみたのだが、答えは「小さいときから親に聞かされてきたから」とそっけない返事だった。
まあ、最近のCMとかドラマでも昔の楽曲がよく使われているし、私が知らないだけで今はそういうブームなのかもしれない。 まあどっちにしても、気に入っている曲だからといってサビの部分を意味不明の英語で歌うのは勘弁してほしい。眠れないから。

ようやく周りが銀世界になってきた。

何メートルも積もった雪の中をぐねぐねと車が走る。ところどころにスキー客用のホテルやペンションが見える。
すっかり夕方になってしまったけど、ようやく目的地に着いたみたいだ。
辻々に立っているペンションの場所を示した看板(やたらおおきくて木で出来ているやつ)を慎重に確認して、彼は車を慎重に走らせる。目指す旅館はもうすぐだ。

そして数回のヘヤピンカーブと行き先確認を繰り返した結果、私たちは今夜の宿の駐車場に車を止めることが出来た。
エンジンを切り、シートベルトをはずすと彼は思いっきり背伸びをした。私もずっと車に乗りっぱなしだったので体が痛い。ハンドバックを掴むと車から飛び出した。
外は凍りつくように冷えている。スキーをしている時だとこの寒さも心地よいのだが、まだ着いたばかりだと思わず体が震えてしまう。
彼が車から降り、トランクを開けた。
そして私の荷物を出し、自分の荷物を取った。2泊するというのに彼の荷物は非常に小さい。ウェアをレンタルするからだと言っていたけど、それにしても小さすぎる。旅行中着替えないんじゃないかと思うぐらいだ。

「っと、一体何が入ってるんだか」

彼が私のバックを渡してきた。

「女の子は色々必要なものがあるのよお泊りには」

「そうかそうか、せいぜいめかしこんで彼氏に見せてやるんだな」

彼は悪態をつきながらトランクに鍵を閉める。きっと自分は一人身だからひがんでいるのだ。
私は旅館の入り口に向かって歩いていく彼に声をかける。

「ねぇ、帰りもあの車で帰るんだよね」

「そうだよ、そうしないと車がスキー場に置き去りになるだろ」

「という事は」と私は話を続ける。

「帰りにもまたあのトンネルを通るんだよね」

彼の足がはたと止まった。

「・・・そうだよ。つーかお前はあいつと一緒に電車で帰れ。そっちの方がいいから」

 自分でもびっくりするぐらい重いバックを抱えながら、私は彼を追い抜きながら言う。

「いいよ、私も車で帰るから」

「またトンネルから出られなくなっちゃった時には、私が手を引いて出してあげるから大丈夫だよ」

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posted by やどかり at 01:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 手習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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