2009年05月04日

Tunnel-6

彼は一瞬、自分の身に何が起きたのか分からなかったようだった。

数秒後、ようやく事態に気づき慌てふためいている彼を尻目に、彼女はますます彼の背中に回した腕に力を入れた。

「ち、ちょっとどうしたの?いきなり何?」

「いいから黙って」と彼女の冷静な声が響いた。

「わ、わかったから。とりあえず肩が痛い、なんか硬いものが当ってるって!」

そう聞くと彼女はわずかに腕に込めた力を抜き、彼の肩に食い込んでいたショルダーバックのベルトのバックルの位置をずらした。
しかし彼女は相変わらず、彼を抱きしめたままだった。

「私がこのトンネルに入った事があるって、さっき言ったよね」と彼女は切り出した。

「うん、小さいときに来たんだよねここに」

「そう、こんな事になるまで今まですっかり忘れてたけど、私はここに来たことがある。
そして、私は今みたいにお母さんに抱きしめられてた」

顔を彼の頬に寄せ、彼女は続ける。

「お母さんは私のことを抱きしめて、怖くないよって何度も言っていた。ユキちゃん怖くないからね、怖いことは何もないからねって繰り返してた。
私は泣いていたけど、その言葉を聞いて、お母さんに抱きしめられて安心した。お母さんと一緒なら、この暗いトンネルも大丈夫だって思った」

「つまり、」彼は今やぴったりくっついている彼女に言った。

「俺のことを元気付けようとしてくれているの?」

「いいから黙って」と彼女は言った。

「お母さんは私を抱きしめて、怖くないって言った。大丈夫だって言った。
そして、私たちはトンネルから出てきた」

「あんたはとにかく黙って。動かないで。私がいるから。私がトンネルからあんたを出してあげるから」

 

 

彼女はそう言うと、彼の頭を抱き指を髪に絡ませながら大丈夫大丈夫とつぶやき始めた。
振り払う訳にもいかないし、かと言って抱き返す訳にもいかない。突然起こったこの事態に、彼はどうする事も出来ないまま、ただ彼女のなすがままに任せていた。

そのようにして彼にとっては永遠とも思えるような時間、実際には数分間が過ぎた時、今まで独り言のように呟き続けていた彼女の声が変わった。
それは聞き慣れていた彼女の声ではなく、もっと大人の女性の声だった。

「ユキちゃん、大丈夫だから。大丈夫なのよ」

彼は声を出さずにじっとしていた。
今自分を抱きかかえているのはさっきまでの彼女ではない。どこかですり替わった訳でも変身した訳でもないが、とにかく別人だ。
大丈夫と言い続ける彼女に身を委ねながら、彼はこれから起こることを待った。
とにかく今は彼女を信頼するしかない。彼女は以前このトンネルを抜け出したことがあるのだから。

 

つと、彼女は彼から手を離した。そして立ち上がると、彼の手を取った。

「ユキちゃん、行きましょう」

彼は言われるがままに立ち上がり、手を取る彼女の後を歩き始めた。

彼女は真っ暗闇のトンネルの中だったが、力強く前に向かって歩き出した。
手を引かれる彼もその勢いにつられて大股で歩を進める。

「ユキちゃん、大丈夫よ。ここは怖いところではないの。お母さんと一緒なら大丈夫なのよ
ここは真っ暗ね。でも大丈夫よ。ユキちゃん暗い所は駄目なのに、今日は泣かなくてえらいねぇ。
もうすぐ出られるからね。ちょっと寒いけど我慢しようね」

彼女はそう言って彼の手を引き、歩き続けた。
彼女は彼女でなく、彼は彼ではなくユキちゃんだった。彼はその事態を全く理解できていなかったけれども、とにかく黙って彼女の後をついて歩いていた。

 

彼は手を引かれて歩いているうちに、こんなに力強く歩いて大丈夫なのかとふと不安に思った。
なにせ周りは真っ暗で、トンネルは緩やかにカーブしている。あんまり大股で盲滅法に歩いていたら壁に激突したりして危なくないんじゃないだろうか?
真っ暗闇といっても、もう彼の目もその暗さに慣れてきていた。最初の頃の自分の手も見えないような状態からは大分改善されて、ある程度なら彼女の姿も判別できるし、トンネルの中の様子もわかるようになっていた。それでもこのスピードで歩くのには怖さを感じる。もう少し速度を落として慎重に歩いたほうがいいんじゃないだろうか?

そんな彼の不安を感じたのか、彼女はさっきまでとにかく力強く歩いていたのに、トンネルの壁の近くまで来ると足を止めた。

「ユキちゃん」
と彼女は声をかけた。

「今からは絶対に手を離しちゃ駄目だからね。手を離したらお母さんと一緒に外に出られなくなっちゃうから。だからしっかり手を繋いでてね。」

そう言うと彼女は彼の手を強く握ったまま、壁に向かって歩き出した。

彼が声をかける間もなく、彼女は壁に溶け込むように入った。まるで壁が液体で出来ているかのように、彼女は壁に入り、そして中に消えた。
ただ彼と繋いでいる手だけが、壁の中から出てきていた。

目の前で起こっているこの異常な事態に、彼は何も言えず、いや声を上げることも出来なかった。
一体これは何なのだろう。彼女は壁の中に消えた。手だけが今も僕と繋がっている。僕も壁の中に入るのか?どうやって?
呆然としている彼を促すように、壁から出ている手が彼を引っ張った。
意外なほど力強く、ぐいっと彼を引っ張る手により、彼は壁の方向へと歩き出した。もう理解が出来ない。とにかく手を離してはいけない。手を離したらどうしようもなくなってしまうという思いだけが彼の足を動かしていた。彼は目をつぶり手の引っ張る方向へと歩いた。

壁にぶつかる直前、彼女の声が聞こえた。

「目をつぶらないで。目をつぶったら何も見えなくなるから」

目をつぶらなくたってどうせ真っ暗なんだから何も見えないだろ!と声を上げようとする彼に、彼女は続けた。

「目を開けて。たとえ真っ暗で何も見えなくても目を開けてさえいれば、いつかは見えるから」

その声が聞こえると同時に、彼は壁の中に入った。目を見開いたままで。

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posted by やどかり at 01:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 手習 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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